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特別史跡基肄城跡の概要
665年(天智4年)に、大宰府を中心とするこの地一帯を防衛する目的で築かれた山城です。
660年に朝鮮半島では、百済が唐・新羅軍によって滅亡しました。日本は百済の再興のために援軍を送りましたが、663年の白村江の戦いで敗北し、朝鮮半島から退却しました。
その後、大陸から唐・新羅軍の日本侵攻に備えるため、664年に対馬・壱岐・筑紫国に防人と烽(のろし)を置くとともに、大宰府を防衛するために水城を築き、665年に百済の高官の指揮により長門国に城を築くとともに、筑紫国に大野城・基肄城が築かれました。
基肄城は、自然地形をよく利用して基山(404.5m)とその東峰(327m)にかけて谷を囲み、約3.9kmの土塁・石塁を巡らしています。尾根沿いには、土を盛った土塁、谷部には石を積んだ石塁を築いて塞ぐ構造で、途中に4ヶ所(推定を含む)の城門を置いています。城内には、武器や食料などを蓄えるための倉庫と思われる建物跡があり、尾根部を階段のように整地して建てられています。
基肄城跡は、当時の東アジアの緊張関係のなかで、つくられたもので、文献によりその築造の時期や背景が明らかにされている、我が国最初の本格的な朝鮮式山城として、歴史的・学術的に極めて貴重であるといえます。