大礎石群は、花崗岩を柱の基礎とした礎石建物跡で、柱間が10間×3間あります。城内ではこの建物だけが特に大きく、城内を一望できる場所に建てられていることから、何か特別な性格の建物であったことが推測されます。城内にはほかに倉庫などに利用されたと思われる建物跡が約40棟見つかっていますが、一部を除きほとんどの建物は柱間が5間×3間の大きさのものです。この建物の大きさは、同時期に建てられた大野城跡の建物と共通しています。
大礎石群(昭和初期)
礎石建物イメージ図
(提供:福岡県教育委員会)
大礎石群(西から)
大礎石群(南から)
1,358年前の本物の礎石が良好に残っています。
中央にある標柱は、大正13年(1924)に建てられています。
基肄城は、自然地形をよく利用して基山(404.5m)とその東峰(327m)にかけて谷を囲み、約3.9kmの土塁・石塁を巡らしています。尾根沿いには、土を盛った土塁、谷部には石を積んだ石塁を築いて塞ぐ構造で、途中に4ヶ所(推定を含む)の城門を置いています。城内には、武器や食料などを蓄えるための倉庫と思われる建物跡があり、尾根部を階段のように整地して建てられています。
基肄城跡は、当時の東アジアの緊張関係のなかで、つくられたもので、文献によりその築造の時期や背景が明らかにされている、我が国最初の本格的な朝鮮式山城として、歴史的・学術的に極めて貴重であるといえます。