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特別史跡基肄城跡(大礎石群)

最終更新日:
  • 大礎石群(だいそせきぐん)

    大礎石群は、花崗岩を柱の基礎とした礎石建物跡で、柱間が10間×3間あります。城内ではこの建物だけが特に大きく、城内を一望できる場所に建てられていることから、何か特別な性格の建物であったことが推測されます。城内にはほかに倉庫などに利用されたと思われる建物跡が約40棟見つかっていますが、一部を除きほとんどの建物は柱間が5間×3間の大きさのものです。この建物の大きさは、同時期に建てられた大野城跡の建物と共通しています。

大礎石群(昭和初期)
大礎石群(昭和初期) 別ウインドウで開きます


礎石建物イメージ図
 礎石建物イメージ図 別ウインドウで開きます            

(提供:福岡県教育委員会)

 

大礎石群(西から)
大礎石群(西から) 別ウインドウで開きます

大礎石群(南から)
大礎石群(南から) 別ウインドウで開きます

1,358年前の本物の礎石が良好に残っています。

中央にある標柱は、大正13年(1924)に建てられています。

  • 町史 平面図
  • 町史 平面図 別ウインドウで開きます(出典:「大宰府都城の研究」 鏡山猛 昭和43年)
  • 10間×3間の礎石建物で、約28m×約9mの大きさで、高床建物と考えられています。

  • マップ(日本語)
     マップ(日本語)PDF(PDF:900.1キロバイト) 別ウインドウで開きます


  • 特別史跡基肄城跡の概要

     665年(天智4年)に、大宰府を中心とするこの地一帯を防衛する目的で築かれた山城です。

     660年に朝鮮半島では、百済が唐・新羅軍によって滅亡しました。日本は百済の再興のために援軍を送りましたが、663年の白村江の戦いで敗北し、朝鮮半島から退却しました。

     その後、大陸から唐・新羅軍の日本侵攻に備えるため、664年に対馬・壱岐・筑紫国に防人と烽(のろし)を置くとともに、大宰府を防衛するために水城を築き、665年に百済の高官の指揮により長門国に城を築くとともに、筑紫国に大野城・基肄城が築かれました。

 基肄城は、自然地形をよく利用して基山(404.5m)とその東峰(327m)にかけて谷を囲み、約3.9kmの土塁・石塁を巡らしています。尾根沿いには、土を盛った土塁、谷部には石を積んだ石塁を築いて塞ぐ構造で、途中に4ヶ所(推定を含む)の城門を置いています。城内には、武器や食料などを蓄えるための倉庫と思われる建物跡があり、尾根部を階段のように整地して建てられています。

 基肄城跡は、当時の東アジアの緊張関係のなかで、つくられたもので、文献によりその築造の時期や背景が明らかにされている、我が国最初の本格的な朝鮮式山城として、歴史的・学術的に極めて貴重であるといえます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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