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基山(きやま)と賀島兵助

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基山(きやま)と賀島兵助

印刷用ページを表示する掲載日:2017年2月28日更新

対馬藩田代領であった基山(きやま)

基肄一郡と養父郡半郡(現在の基山町と鳥栖市の一部)の地域は、天正15年(1587)に豊臣政権の九州国割りで小早川氏の領地となりました。

その後、慶長3年(1598)に太閤蔵入(秀吉の直轄領)となった翌年、薩摩国出水郡1万石の代替地として、対馬藩宗氏の領地となり、対馬藩田代領が誕生しました。

以後、明治初期まで、田代領は宗氏が代官をおく時代が続きます。

 田代領代官所副代官賀島兵助

この田代領に、延宝3年(1675)、副代官として賀島兵助(※)が着任します。

賀島兵助は、27か条の壁書(法令や掟などを板や紙に書いて壁に貼りだしたもの。「へきしょ」ともいう。)を、領民の規範として領政にあたります。

また、つとめて代官所の外にも出て、直接、庄屋や一般領民と接したそうです。

このような賀島兵助の日頃の言動が人心に投ずるものがあったものか、兵助を名副代官と慕うものは多かったようです。

 善政への感謝や御礼

 賀島兵助の実績について、田代領大小庄屋34人のうち11人が発起し、この教えを忘れないようにするため、かつ、これからの子孫に残しておくことを目的として、「基肄養父実記」と名付けたものを作成しています。

作成は手回しよく、賀島兵助が田代を離れる日までには完成させています。

また、賀島兵助が9年5か月の在任を終えて帰国の際には、多くの領民が見送りに出て、別れを惜しんだといわれています。

さらには、賀島兵助の善政への御礼として、貞亨元年(1684)から、毎年150石が御礼米としての献上が定まり、廃藩まで続きました。

憲副賀島君碑と賀島祭

その後、天明3年(1783)に、田代領内の大小庄屋・両町役全員の連盟で、石碑建立の願書が代官所に出されました。

寛政6年(1794)、「憲副賀島君碑」が、鳥栖市・太田山の岡上に建てられました。

碑が建てられた後、毎年4月9日に「墨直し」として祭典が行われていました。

明治に至り、廃藩後は、いったんやめられていましたが、明治11年(1878)に復活します。

現在は陽暦4月9日に「賀島祭」として祭典が行われています。

憲副賀島君石碑憲副賀島君碑

※名前の表記として、「兵助」、「兵介」などが各文献において見られる。
このページにおいては、下記の参考文献の表記に従い、「兵助」を用いた。

参考文献

・基山町史編さん委員会・基山町史編集委員会編集、基山町発行2009『基山町史』下巻
・基山町教育委員会編集、基山町発行2012『ふるさと基山の歴史』

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