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基肄城跡(国指定特別史跡)

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基肄城跡(国指定特別史跡)

印刷用ページを表示する掲載日:2011年3月1日更新

基肄城跡

 基肄城(きいじょう)は、天智天皇4年(665)唐・新羅の侵攻に備え、大宰府防衛のため築かれた朝鮮式山城です。筒川の谷を袋状に囲む稜線に4kmにわたって土塁を巡らせ、谷の出口を石塁でふさいだ約70haの地域が城内でここに40棟以上の建物がありました。
基肄城跡は春、秋は絶好の史跡めぐりシーズンで、森林浴をかねて山歩きを楽しむことができます。
史跡めぐりコースを歩くと、今に残る土塁・石塁・問跡・水門・礎石などから当時の国防施設をしのぶことができます。
山頂一帯は芝生におおわれ、眺望絶佳。万葉歌人も登山して歌を残しています。

基肄城跡山頂礎石群天智天皇欽仰之碑

基肄城跡山頂

礎石群

天智天皇欽仰之碑

礎石群基肄城跡にいる水門草スキー場

礎石群

基肄城跡にある水門

草スキー場

また、山頂西側には自然の広々とした天然の草スキー場があり、春、秋シーズン中の土曜、日曜、祭日は、スキーの貸出しをしています。天然の芝保護のため、木製の貸しスキーをお使いください。
史跡探訪、ハイキング、春秋の草スキー、観月など家族連れのハイカーでにぎわいます。

草スキー場

草スキーのシーズン
●春3月~5月
●秋9月~11月
シーズン中の土曜、日曜、祝日は1台300円でスキーをお貸しします。
雨天等で貸出ししない場合もあります。

日本列島と朝鮮半島との交流史

 ◆なぜ基肄城が築かれたか

西暦600年ごろの朝鮮半島は、西に高句麗(こうくり)、北に新羅(しらぎ)、南に百済(くだら)の三国があり、新羅は高句麗・百済と、そして高句麗は中国の唐(とう)と戦っていました。
唐は新羅と連合して百済討伐の軍を起こし(660年)、百済国を滅ぼしました。百済滅亡直後から各地で百済を再興しようとする気運が高まり兵をあげ、日本に助けを求めてきました。日本の斉明(さいめい)天皇はこの求めに答えて5千の兵を百済に送りました。
これにたいして唐も大軍を派遣し、白村江(はくすきのえ)の地で唐の水軍と対戦したが大敗してしまいました。すると一転して唐・新羅の侵攻に備える必要がでてきました。
天智天皇は対馬、壱岐、筑紫などに警備の兵である防人(さきもり)を置き(664年)、大宰府の前面に水城を築き、665年に大野城(福岡県)および基肄城の2城を築きました。基山(きざん)は、そのころ九州を治める役所のあった大宰府の南8kmのところにあります。人々は大宰府から肥前(ひぜん)の国(佐賀県・長崎県)や筑後(ちくご)の国(福岡県南部)に行く場合、基山(きざん)のこの地を通っていました。そこへ敵を防ぐための城を築いたわけです。

◆基肄城の構造

基肄城は背振山系の東端にあたる基山と峰続きの坊住山(ぼうじゅやま)の2峰を尾根の稜線を総延長4.3kmの土塁で結んで山城を築きました。土塁の幅は20m程度、土塁の外側は鋭く切り落とし、内側を低くした車道と呼ばれる幅15mの通路があります。土塁の途中には大宰府側に通じる北帝門と東北門跡があり、礎石も残っています。

◆基肄城のその後

白村江の戦いの後朝鮮半島では、唐・新羅軍と高句麗の戦いに移り、668年、ついに高句麗が滅亡します。その後、連合していた唐と新羅も対立するようになり676年に唐は朝鮮半島から撤退し、朝鮮半島南部が統一されました。この後、新羅軍は日本に侵攻することはなく、かえって友好の使を遣わしています。日本も遣唐使を派遣するなど、国交回復は順調に進んでいきました。

交通

◆城戸口コース

JR基山駅から徒歩で水門跡まで50分、それから約30分で山頂。
また、史跡めぐりコースは約2時間。
鳥栖筑紫野道路からは、城戸インターで入る。

※令和元年6月現在、災害復旧工事のため、水門周辺は通行できません。

 

◆宮浦口コース

JR基山駅から徒歩で瀧光徳寺まで50分、それから約30分で山頂。
鳥栖筑紫野道路からは、宮浦インターで入る。

基肄城跡に関する問合せ

基山町教育委員会教育学習課
電話0942-92-2200

草スキー場に関する問合せ

基山町観光協会
電話0942-92-7945

貸しスキーに関する問合せ

基山町社会福祉協議会

電話0942-92-3311

このページに関する
お問い合わせは
(ID:646)
 
基山町役場 産業振興課
〒841-0204  佐賀県三養基郡基山町大字宮浦666番地   Tel:0942-92-7945  Fax:0942-92-0741

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