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町の歴史

印刷用ページを表示する 掲載日:2011年3月10日更新

町の歴史

 町の歴史は、千塔山(せんどやま)遺跡などで出土した石器により、まだ土器の無い旧石器時代(約12000年以前)にまでさかのぼります。次の縄文時代(約12000~2200年前)の遺跡としては、白坂遺跡などがありますが、この時代までの人々の痕跡は今のところ多くありません。しかし、本格的な稲作が始まった弥生時代(約2200~1800年)になると、千塔山遺跡・金丸遺跡などの多くの大規模な集落跡や墓跡が、町の中央部や南部の丘陵地帯から出土し、当時この地に多くの人々が生活していたことを示しています。古墳時代(約1800~1300年前〉の遺跡には、中隈山遺跡などでこの時代初期頃の墓跡が一部確認されているものの、大半は後半頃の古墳群が山麓部に沿って数多く確認されています。

 古代では、この一帯に基肄郡(きいぐん)が置かれ、いくつかの文献に当時の様子が記載されています。「肥前国風土記」によれば、この郡は「郷六所、里十七、駅壱所」とあります。また「日本書紀」には天智2年(663)の白村江(はくすきのえ)の敗戦により、大宰府を中心とした北部九州防衛の拠点として、天智4年(665〉に大野城(福岡県〉とともに基肄城を築いたという記載があります。この関連施設として関屋土塁・とうれぎ土塁も築かれています。さらにこの時代には条里制の施行があり、当町と小郡市の境が一条にあたります。その名残として園部地区には「三十六」・「八の坪」の地名が残っています。平安期には、大宰府の荘園として「小倉庄」や宇佐八幡宮の荘園として「奈良田庄」が当時の文献に記載されています。

 中世の南北朝時代には、南朝方の年号である正平10年(1355)銘の自然石彫像板碑があることから、この頃当地域は南朝方の勢力下にあったと思われます。戦国時代には、少弐氏・鎮西探題の渋川氏・大内氏・大友氏などがこの地で争い、一時期渋川尹繋が園部城に拠ったこともあります。その後は、おおむね勝尾城(鳥栖市〉を本拠とした筑紫氏の支配下にあつて、宮浦城もその一族の城となっていました。また、時期は不明ですが、基肄城にも城として一時期使用されたことを示す遺構が残っています。

 近世では、豊臣秀吉の九州統一後の天正15年(1587)に、当町を含む通称「基肄義父」(きやぶ)と呼ばれる基肄郡・養父郡(やぶぐん)東半部(基山町・鳥栖市東半部の地域)は小早川隆景の所領となりました。その後、文禄3年(1594〉には秀吉の蔵入地なり、慶長4年(1599)に、対馬島主の宗氏の領地として、対馬藩田代領となりました。また長崎街道沿いには、正保2年(1645)に新しく木山口町が成立したほか、文化2年(1805〉に三国境石、この2年後に二国境石が建てられました。この時代の中頃(18世紀中頃)までには田代売薬が発生し、後に対州田代の売薬として越中富山・近江(江州)・大和(和州)と並び、日本の四大売薬の一つにあげられるようになりました。

 近・現代を迎え、田代領は明治4年(1871)の廃藩置県に厳原県に所属しましたが、その後いくつかの異動を経て、同16年(1883〉佐賀県に所属しました。同22年(1889)には、小倉・長野・園部・宮浦の4ケ村が合併して基山村が成立し、昭和14年(1939)の町制施行により基山町となりました。その後、同34年(1959)長野の一部を鳥栖市に分離し、現在の町域となっています 。